理究の哲学(エンジン)

第二章 自分ノ学

第二項 利己的と利他的

― ”チャンス(機会)と経験”を与える ―

他者がいる集団 ―保育園、幼稚園、学校― の存在や場は、成長の上で重要な役割をします。できれば、親のいない空間で共に生活をさせる体験をさせ、「単なるジコチュウ」ではいられない機会、学習できる場面を与えたいものです。
チームスポーツも、キャンプ生活や寮生活もお薦め。大学生になっての留学経験は「単なるジコチュウ」からの脱皮のチャンスを与えてくれるでしょう。
教育は、「チャンス(機会)」と「経験」を与えることが主な任務だと私は考えています。貧困のため、偏見のために、チャンスを与えられない、経験もできない、とするならば、そんな組織や環境を抜け出す勇気を持ちましょう。
贅沢を言えば、キチンとした指導者―ドラマの熱中時代や金八先生に登場してくる先生が多くいればいいのですが、現実的ではないですね。
「ジコチュウ」を矯正する仕組みが脆弱になっていくのを懸念しています。中国の「一人っ子政策」にみる現象をみると暗くなるのは私だけではないようです。
さらに、日本でもいじめやDV(家庭内暴力)の報道が絶えません。

生物学では自己の利益だけを求める行動を「利己的な行動」、他者の利益を優先する行動を「利他的な行動」と呼びます。
生物は、自然淘汰されていきます。生き残る術や性質を獲得したものが進化し、生存競争に勝ち、進化したものだけが生き残ります。
よって、「利己的な行動」こそが、生物にとっての規範行動となります。勿論先ほどにも触れたように、「利己的な行動」と「利他的な行動」が明白に区別できない行動が断然多いです。

「○○くんは、どう感じているだろう?どう思っているのだろう?」といった想像力を使う、働かせる機械が少なくなっているのでしょうか。家庭の教育力の劣化が原因でしょうか。地域社会の崩壊に伴う学校教育力の衰退が原因でしょうか。原因はなかなか特定できません。
「自分」を大切にし、”利己的な行動”に邁進することと、「他者」も大切にし、”利他的行動”も尊重する、そんな考え方が、社会的適応者に一般的なものです。

「いやいや、私は私自身が一番大切だとは思っていない!」
って言う人がいます。
あなたはどうですか?自分が一番大事ですか?
それとも、自分より大事な人がいますか?どうでしょう?
そうですね、もしかしたら、数パーセントぐらいはいるかもしれません。そう、圧倒的に例外ですが、「自分が一番大切」ではないと感じる人間がいます。

それは”親”です。

ただし、親のすべてではないし、いつまでも、ではありません。
親になると”わが子”が一番大事になる時期があります。
つまり、”自分より大切な存在”の出現です。これは強烈な体験になり、人生そのものを変える可能性もあります。
特に、乳児~幼児、そして児童期あたりまではその傾向が強いようです。
思春期になれば、通常は親も子離れしていきます。
乳飲み子を抱きながら「この子のためなら何でもできる。死ぬ気で働く。絶対に幸せにする」と口にしたり、心の中で誓うのです。
その誓いも時間の経過と共に色褪せていきます。勿論、色褪せない人もいれば、希なケースですが、わが子のことにあまり関心を寄せない人もいます。
一般的に”親”というのは、人間として特殊な”形態”だと考えればいいでしょう。
”親”については、『理究の精神』の第三章【親、その崇高なるものの研究】でも触れたので割愛します。

固定ページ:
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25

26

27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130